建暦元年(1211年)11月17日、法然一門の流刑が解かれました。法然上人は京都に戻られてすぐに、かねてからの病によって東山大谷でお亡くなりになりました。
親鸞聖人は越後から常陸に移り、以降20年の間、関東に留まって教えを広められました。その間に『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)の執筆を始められたと伝えられています。執筆を始めた頃、京都では再び専修念仏の弾圧が行われていました。法然上人のお墓は破却され、『選択本願念仏集』の板木の消却がされ、弾圧によって専修念仏信仰の芽が次々とつみ取られていくのでした。親鸞聖人は関東にいて処罰を逃れましたが、その悲しい知らせを聞くにつれ、『教行信証』執筆の意欲は一層増大したことでありましょう。
親鸞聖人は、62歳頃に、関東から京都に帰られました。京都から帰られてからは『教行信証』を完成させるとともに、『和讃』をはじめ多くの書物を著し、また関東から訪ねてくる門弟たちに浄土の法門を教授し、あるいは書簡を送って遠国の門弟達を指導していかれました。しかし、関東を去った後、東国教団のなかには念仏を曲解する者もあらわれました。煩悩不足の身であるからといって「悪は思ふさまにふるまふべし」というような造悪無碍の行動をあえてとるものが出はじめたのでした。そこで聖人は息男の善鸞を東国につかわしてその間違いを静めようと試みましたが、親鸞聖人の説くところと違った教えを説いて、さらに混乱をきたす事件を起こしてしまいました。それを知った聖人は、父と子の縁を絶つ以外に事態を収拾する道のないことをさとり、善鸞を義絶し、親子の縁を絶ってしまいました。このとき親鸞聖人84歳でした。 |