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上写真:親鸞聖人像 

 


親鸞聖人銅像(大正寺境内)
親鸞聖人がご生涯をおくられた日本は、源平の争乱や鎌倉幕府の成立など、武士の台頭とともに政治体制が大きく変わろうとしていた時代でした。戦乱や災害で疲れ切った人々を救うには、いったいどうすればよいのか。当時の仏教は、大きな壁に突き当たっていました。それまで人々に尊ばれてきていたものがその権威を失い、人々の考え方が根底からくつがえされていくような動乱の時代に、これまでのように伝統的な教学を研究したり、天皇や貴族の求めに応じて加持祈祷をしているだけでは、世の中の混乱や不安は一向に解決できずにいました。後に鎌倉仏教と呼ばれる、新しい宗派が誕生する激動の時代に、親鸞聖人は人生を送られたのでした。

ご誕生と出家

親鸞聖人は承安3年(1173)に京都の南、日野の里で誕生されました。京都の公家の家に生まれましたが、父の日野有範(ありのり)は親鸞聖人が幼少の頃に出家し、その後母は亡くなり、(母については、源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)であると伝えられています)伯父である日野範綱のもとで養われました。
治承5年(1181)9歳の春、伯父に伴われて、京都の三条白川にある坊舎において得度し、範宴(はんねん)と名乗られました。そして比叡山に登り、以降20年にわたって天台宗の学問と修行を中心に修学されました。比叡山は宝亀4年(785)、伝教大師(最澄)によって開かれた日本最古の仏教総合大学ともいうべき、仏道修行の根本道場です。親鸞聖人は堂僧として厳しい修行を行い、朝から読経をし、祈祷を上げ、また洗濯や炊事などの日常雑事を行い、十年一日のごとく日々を送っていました。
親鸞聖人は20年にわたって比叡山で修学しましたが、学問が深まるほど、また厳しい修行をつむほど、虚しさが感じられるのでした。聖人は、自分の力で心をみがき、行をはげんで仏の悟りにたどりつこうとする、自力聖道(じりきしょうどう)の教えがどんなに難しいものであるかを知るにつれて、断ち切ることのできない自らの煩悩に苦しんでおられたのです。
山を下りて聖徳太子の指南を仰ぐ

 比叡山での修行生活では生死の迷いを離れる道を得ることが出来ないとさとられた聖人は、建仁元年(1201)29歳の時、ついに比叡山を下りる決心をされました。そして京都の烏丸にある聖徳太子が建立された六角堂に百日の参籠(さんろう)を続けられ、ただひとり如意輪観音の前に坐り続けられました。親鸞聖人は太子を「和国の教主(日本のお釈迦様)」として尊敬されていましたので、今後の歩むべき道を尋ねられたのです。そして参籠してから95日目の暁、観世音菩薩の誓願を聞きました。その誓願は、生死の迷いを離れる道は願生浄土(がんしゅじょうど)の仏道の他にない、そしてそれはこの生死の中にこそ成就している、すべてのひとがありのままの姿で救われるのだと告げていました。
聖人が六角堂に籠もられたのは、比叡山での修行に行き詰まりを感じたと同時に、うわさに聞く法然上人の教えに強く惹かれるものがあったからでもありました。しかし法然上人の教えは、当時の仏教界から、根本的な精神に背くものであって仏教を堕落させる邪道であると非難されていました。法然上人の説く仏教が果たして悪知識であるのか、それとも善知識であるかを見定めることができずにいた聖人は、六角堂に籠もり、聖徳太子の指南を仰ぐ事でその迷いを消し去ることができたのでしょう。



親鸞聖人御影(鏡御影)本願寺蔵
法然上人との出会い

親鸞聖人は六角堂を出て、東山吉水で専修念仏を説かれていた法然上人を訪ね、門弟となりました。法然上人はこれまでの浄土教から独立して浄土宗という一派をたて、専修念仏の教えをとなえられました。法然上人は後世の問題を解決する教えを説く上人として、吉水にはその教えを聴こうという者が絶えずつめかけていました。親鸞聖人は1201年からの6年間、法然上人のもとで懸命に学び、やがて聖人は法然上人から厚い信頼を寄せられるようになり、法然上人の主著である『選択本願念仏集』を書き写すことを許されます。法然上人は「善人であれ、悪人であれ、すべてのものを分けへだてなく救って、後生は浄土に迎えとろうと願い立たれた阿弥陀仏が、念仏の一行を生死を越える道として選び定めていて下さる。それゆえ私は、この身を本願にまかせて念仏を申しているのです」とただ一筋にお説きになり、親鸞聖人は「わたしは上人の往かれるところへ往かせていただこう。それがたとえ地獄であったとしても、決して後悔はしない。このままでは永劫に迷い続けるしかない愚かな者ですから」と、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」の念仏を称える道に入り、如来とともに歩む、あたらしい人生に向かわれたのでした。
弾圧と流刑

吉水で説かれていた専修念仏は、年々信者が増大していき、京都の洛中においても有名な存在となっていきました。法相宗、天台宗、真言宗をはじめ、すべての旧仏教教団の僧たちは、専修念仏の教えが巷に広がることに驚異を感じ、批判をするとともに専修念仏の停止を朝廷に訴えました。そして1207年2月、朝廷は法然門下に対する弾圧を開始し、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後国国府(新潟県直江津市)へ流刑となりました。僧籍も剥奪され、親鸞聖人は越後の国での再出発が始まりました。親鸞聖人はこの時、自らの立場を表明して「非僧非俗」と称されています。もはや国家によって認められる僧でもなければ、国家権力を至上のものとして尊ぶような俗でもない。法然上人の導きによって真実の仏道に帰依し、念仏に生きる者としての一生が始まりました。親鸞聖人の選んだ在家仏教は、仏教を世俗化していくことではなく、世俗を仏道に高めていくことでありました。
越後での5年にわたる流人としての生活は、親鸞聖人を大きく変えたに違いありません。越後の厳しい自然の中でたくましく生きる庶民と共に、さまざまなことを学びました。また、流罪中に恵信尼さまを妻にむかえられ、やがて男女6人の子女をもうけられました。


聖人御旅御影(千葉:常敬寺蔵)
関東での教化

建暦元年(1211年)11月17日、法然一門の流刑が解かれました。法然上人は京都に戻られてすぐに、かねてからの病によって東山大谷でお亡くなりになりました。
親鸞聖人は越後から常陸に移り、以降20年の間、関東に留まって教えを広められました。その間に『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)の執筆を始められたと伝えられています。執筆を始めた頃、京都では再び専修念仏の弾圧が行われていました。法然上人のお墓は破却され、『選択本願念仏集』の板木の消却がされ、弾圧によって専修念仏信仰の芽が次々とつみ取られていくのでした。親鸞聖人は関東にいて処罰を逃れましたが、その悲しい知らせを聞くにつれ、『教行信証』執筆の意欲は一層増大したことでありましょう。

親鸞聖人は、62歳頃に、関東から京都に帰られました。京都から帰られてからは『教行信証』を完成させるとともに、『和讃』をはじめ多くの書物を著し、また関東から訪ねてくる門弟たちに浄土の法門を教授し、あるいは書簡を送って遠国の門弟達を指導していかれました。しかし、関東を去った後、東国教団のなかには念仏を曲解する者もあらわれました。煩悩不足の身であるからといって「悪は思ふさまにふるまふべし」というような造悪無碍の行動をあえてとるものが出はじめたのでした。そこで聖人は息男の善鸞を東国につかわしてその間違いを静めようと試みましたが、親鸞聖人の説くところと違った教えを説いて、さらに混乱をきたす事件を起こしてしまいました。それを知った聖人は、父と子の縁を絶つ以外に事態を収拾する道のないことをさとり、善鸞を義絶し、親子の縁を絶ってしまいました。このとき親鸞聖人84歳でした。

往生

このような事件が起こったこともあり、親鸞聖人は80歳を過ぎてもなお精力的に著述を進め、特に多くの書状をしたためて、関東の門弟たちの信心と生活の指導に努められました。親鸞聖人の著述は『教行信証』をはじめ十数部にのぼります。
そして90歳となられた弘長2年(1262年)11月28日、三条富小路にあった弟・尋有の善法坊で、末娘の覚信尼さまに見守られながら、往生をされました。
 
 
 
 
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