宗教は、人間のかかえている究極的な問題、すなわち、老病死の苦悩の解決にかかわるものであります。釈尊が出家される機縁となったのも、その問題であり、老病死が迫っていることに気付く時、人間は、今ここに生きていることの意味を問わずにはおれません。この問題を解決しようとするところに、宗教の根本的な意義があります。
しかしながら、私たち人間は、歴史的社会的な制約の中に生きているのであり、宗教もその外に立つことはできません。とくに現代は、人類がいまだかつて経験したことのない変動の時代であります。それは科学と技術の発達や、産業の発展の上に顕著に見られるところですが、それだけではなく、その変動は人間の内面にも深い影響を及ぼしています。
技術の進歩と経済の発展は、人間の夢を次々と実現させましたが、それにともなって人間の欲望をも限りなく増大させました。他の人びとを顧慮せぬ自己中心的な欲望の追求は、差別と不平等を生む源となっています。人間中心の思想は、一面では自由と平等の実現のために貢献してきましたが、他面では人間を絶対化し、争いや不安を助長することにもなりました。
また都市化による地域共同体の弱体化や、大組織による人間管理の強化によって、人間は自らの依るべき根拠を失いつつあります。その結果、自己自身を見失い、ひいては他の人びとの人格や、生命一般の尊厳性をも正しく見ることができなくなってきています。しかもこのことは、人類の文化、さらには宗教にも影響し、伝統的な宗教の基盤をゆるがしています。
このような人類存亡の危機にあたって、一時的な慰めではなく、真の人間性を回復する道を見出すことこそ今日の宗教の使命であります。そのためには、私たち宗教者は、世俗的な力に迎合することなく、自らの信ずる教えを真摯に究めるとともに、同じ道を歩もうとする人びととも手を携えて努力しなければなりません。さらに、歴史と伝統をもつ他のすぐれた宗教との対話を試みることも必要と考えられます。
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